赤羽組の打ち上げは、どうやら予定通りにできそうな情勢ですので、既に出席表明してくださった方は楽しみにしていてくださいね。大したおもてなしもできませんが……。
さて、今年度短編の部大賞の上原さんも
ブログを開設したということで、このブログもそろそろ役目を終える時が来たように思います。その前に、以前告知した通り、映画『金糸雀は唄を忘れた』について至極簡単な総括をしておきましょう。
この作品は、脚本がシナリオ大賞の一次審査を通過した時、僕が映画祭から送付されたアンケートに記した以下の言葉から始まったと言っていいでしょう。
「遺書」のつもりで書き始めたのですが、けっきょく「まだ生きたい」ことを確認しただけの作品になってしまいました。
失敗作です。
そしてこの言葉は、完成した映画にも見事に当てはまります。誤解を恐れずに言い切ってしまいましょう。
映画『金糸雀は唄を忘れた』は、紛うことなき「失敗作」です。
『ゴジラVSスペースゴジラ』という映画があります。ゴジラファンの間ではすこぶる評判の悪い、正に「失敗作」として認知されている作品です。確かに脚本は破綻しまくってるし、演出は説明不足も甚だしいし、宇宙でのバトルシーンの特撮はヒドい出来だし、客寄せパンダとしか思われぬリトルゴジラの存在意義の薄さと造形のヒドさといい……などと、難点をあげつらっていけばそれこそキリがない。
しかしこの映画、無意味なまでにむやみやたらと「熱い」のです。たとえばクライマックスのバトルシーンが約40分。映画全体の三分の一以上を占める長さです。そんなに長いバトルシーンを入れたら観客がダレるだろうということは、
ふつうは完成前に気付くはずです。しかし映画は、「だってそうなっちゃったんだから仕方ないじゃん」とでも言いたげに、延々40分のバトルシーンを描写してみせます。まさに
監督の情熱だけが一人歩きしていて、誰一人ついてきてない感じ、とでも言いましょうか。明らかな駄作でありながら、そういう意味不明な熱さが時として燦然と光り輝いて見えるこの映画が、僕は実は大好きだったりするのです。
理由なんか関係ない。整合性なんか関係ない。できないことは最初からわかっていたさ。でもつくるしかなかったんだ。だからつくったんだ。文句あるか。だいたいこんな脚本、ちょっと自主映画を齧ったことがある程度の素人に毛が生えたような人間が、たった一年で、ロクな予算も与えられずに完璧に作り上げられるわけはないじゃないか。でも俺はつくってみせた。持てる力の限りを尽くして。恥を忍んで、300人近い観客の前で上映してみせた。同じことがあんたらにできるか?ああ、駄作だったさ。でもこれが俺なんだ。これしかつくれなかったんだ。文句あるか。
……今年の伊参スタジオ映画祭に触れたあるブログで、2日目に上映された一部の作品群を評して「有り余る情熱がちょいと空回りしてる」という一文がありました。具体的な作品名には触れていないけれど、僕は『金糸雀は唄を忘れた』に冠せられる言葉として、これほど適当なものはないと感じました。
僕は、多くの人たちが怖がって、あるいは面倒くさがってやろうとしないことに挑戦した。そして見事にコケた。周囲の人たちはその姿を見て笑ってくれればいいです。でも僕はその誇りを決して手放しませんよ。そうでなければ、こんな映画しかつくれなかった僕の一年間は――いや、これまでの創作人生は、あまりにも惨めです。
映画『金糸雀は唄を忘れた』は失敗作。それも、「誇り高き失敗作」です。
これが、監督としての僕の結論。
「大した野郎だよ、あいつは……気が済んだ!」