みなさん、こんにちは。
第8回伊参スタジオ映画祭からちょうど二週間が過ぎました。
終盤にふさわしく(?)コメント欄も多少盛り上がったりした(??)ところではありますが、このブログはここでおしまいにしたいと思います。
長い間、僕のへそ曲がりで思い入れ過剰な文章にお付き合い頂きありがとうございました。語り口の偏屈さ、あるいは率直さゆえに、時には(というか、常に?)皆さんに不愉快な思いをさせてしまったこともあるかと思いますが、どうかお許し下さい。
ただ、映画においても、脚本においても、このブログにおいても、僕は他人の神経を逆撫でするような話法を敢えて行使することによってしか、表現できないことがあると考えたのです。
なんて理屈を述べるのも、今日で最後です。
映画『金糸雀は唄を忘れた』は失敗作である――
「そんな言葉を吐けるほど、おまえは偉いのか?」
そう言われれば、本当にそうですね。偉そうなことばかり書いて、ほんとすみません。いろいろ理屈を書いて強がってみせたりもしたけど、この傲慢さとへそ曲がり根性に一番手を焼いていたのは、実は自分自身だったのだと思います。
でも、これだけは誤解してくれるなよ、と思うこともあります。
僕はこの映画が好きだと言ってくれる人の思い入れが間違ってるなんて言ってない。制作に関ってくれた人たち、応援してくれた人たちの思い入れが間違ってるなんて言ってない。それが否定であれ肯定であれ、『金糸雀は唄を忘れた』という映画が、観てくれた人たちや関ってくれた人たち一人一人の心に、それぞれの『金糸雀は唄を忘れた』として住み続けてくれるなら、それは本当に素敵なことです。お為ごかしでなく、本当に、素敵なことです。
でも、だとしたら、僕の心の中にも、僕なりの、僕にしかない『金糸雀は唄を忘れた』が住んでいるのです。最後の最後に、せめて僕なりの言葉で、僕なりの『金糸雀は唄を忘れた』を語ることを、この一年間の苦闘と監督の名に免じて許してほしかった――それが、曲がりなりにも自分が腹を痛めた子供に対する僕なりの「オトシマエ」だから。
(とはいえ『ゴジラVSスペースゴジラ』という喩えはいくらなんでもあんまりだったか・笑)
しかし何度も言いますが、ネガティブな意味の言葉が、必ずしもネガティブな意味でばかり行使されるとは限りません。だから僕にとって「失敗作」とは、僕自身が、おそらく恵まれていると言えるであろう今の境地に慢心しないための決意の言葉です。クリエイターとして、疑い続けることを忘れず、次へ進むための呪文のような言葉なのです。
僕は興行師でも、単なる消費者でもない。クリエイターだから。
最後に。
一年間、出会えてよかった人も出会いたくなかった人も、僕を支えてくれた人も傷付けた人も、僕に何かを与えくれた人も僕が何かを与えた人も、そしていまこのブログを読んでくれているあなたも、そして何より、伊参スタジオという故郷とそこで出会ったすべての人々、全部ひっくるめて、心の底から――
素敵な一年をありがとう。
この言葉は正真正銘の「字義通り」です。
さて、このブログのタイトルは「金糸雀が唄を思い出すまでの日記」です。
果たして金糸雀は、忘れた唄を思い出したのでしょうか。
答えはここでは言いません。
この小さくて大きな営みに最後まで関ってくれた、皆さんの胸に託します。
そして金糸雀の旅はまだまだ続きます。
運がよければ、またいつかどこかでお会いしましょう。
その日まで、どうかごきげんよう。
さようなら。
もうすぐ夜が明けます。